【共著者に聞く】情動的な部分の言語化には「書く」ことが最適

2020年4月25日(土)の午後に『職場の現象学』のオンライン出版記念講演会が開催されました。露木恵美子ゼミの現役生や卒業生を中心に30人以上の方々が参加しました。

共著者である山口一郎と露木恵美子の対談後、参加者が4~5名のグループに分かれ著者への質問を挙げました。このシリーズでは、講演の中で答えきれなかった質問を中心に回答していきたいと思います。

質問:
情動的な部分をどう言語化していくか

(今回の回答者:山口一郎)

書いてみることが最も有効

「情動的な部分をどう言語化していくか」というご質問ですが、「自分の感じと思い」を言葉にするのにもっとも適切な方法は、「書いてみる」ことです。書いてみて初めて自分の気持ちがはっきりするものです。日々の自分の気持ちの変化は、まさに「情に棹させば流される」(夏目漱石)ともいえ、流されまいと思う以前に、「喜怒哀楽」にもてあそばれがちです。情に流される前に、「何をどう思って、何をしたいのか」自分の気持ちにしっかり向き合うためにも、「それを言葉にし、文字にして書いてみる」ことほど、有効な手立てはないのです。

「時間の流れはどう意識されるのか」を言葉にしたフッサールの例

その一例として、ここではじめにご紹介したいのは、直接、情動の流れを言葉にすることではありません。そうではなく、情動の流れに限らず、出来事が起こっては過ぎ去っていく「時間の流れ」は、いったい私たちに「どのように意識されているのか」言葉にして、書物にすることで、誰もが納得せざるをえない「時間論」を執筆したフッサールの実例です。

現象学の創始者であるE.フッサールは、音が聞こえるとき(カラスの「カーカー」でも、教会の鐘の「カラーン、カラーン」でもなんでも構いません)どうして、そのように「カーカー」「カラーン、カラーン」と聞こえるのか、言葉だけを使って、その聞こえるままの音がどうしてそのように聞こえるのか、文章を書くだけで説明しようとしました。音が聞こえる現実を、その現実について自分はどう考えるか文章にすることで、この問いを突き詰めること10年あまり、「カラーン、カラーン」の2番目の「カラーン」が聞こえるとき、過去になって今は聞こえていない初めの「カラーン」が過ぎ去った過去の「カラーン」として聞こえるのは、「過去把持Retention(レテンツィオン)」という「過ぎ去ったことを過ぎ去った過去のこととして意識にもたらすことのできる志向性」、つまり「過去把持の志向性」を発見するに至ったのです。この過去把持の発見は、20世紀以降の哲学にとってもっとも重要な出来事といえるのです。

「言葉にすること」は小学生の時から始まっている

これは、フッサールの行った「自分の考えを文章にする」という一例ですが、このような「ことが過ぎ去るということ」「現在のカラーンと過去のカラーンをどうやって区別しているか」といった問いは、哲学者ならではの問いといえます。しかし、このような言語による問いの探究の始まりは、実は、小学校高学年頃から始まる「いじめられていることをどうやって言葉にし、文章にできるか」「自分の思いに向き合い、それを言葉にし、文章にする努力」にあるといえるのです。

小学生がいじめを言葉にすることは情動のぶつかり合い

「哲学の問いを文章にすること」と「いじめられている辛さを言葉にし、文章にすること」とどちらが大変か、比べてみてください。「いじめを言葉にすること」の方が何百倍も難しいことは明らかです。暗黙知と形式知という言葉を使えば、哲学の問いは、形式知内部での野中郁次郎のSECIモデルで「連結化」の領域での理論化の作業ですので、知的な努力ですみます。専門領域での知的努力ほど、容易なことはありません。「AはAであって、同時にAでない」といった矛盾したことを言わなければいいのですから。

ところが、小学生が「いじめ(いじめられているにしろ、いじめているにしろ)を言葉にする」とは、暗黙知を形式知にする「表出化」の努力であり、自分の情動の変化に言葉を当てはめるという努力は、並大抵のものではありません。「好き・嫌い」「快・不快」「仲良し・仲間はずれ」といった情動の世界ですので、「いじめられている」と口にしようという思う前に、「母親の悲しそうな顔」とか、「父親の怒った顔」が、その思いを押しつぶしてしまいます。ここで生じているのは、情動と情動のぶつかり合いなのです。

アニメのストーリーを友達に伝えるように文章に書くという工夫

そこで、子供達が自分の思いを言葉にし、文章に書くことができるように工夫したのが、「自分の気持ちを綴る」金森俊朗の作文の練習(本書第1部第9章を参照)です。金森は、子供達が自分の気持ちに向きやすいように、「今、私が気になっていること」とか、「ちょっと悲しいことがあります」とか、「ちょっと恥ずかしくて言いにくいのですが」とかいった書き出しで、作文を書き始めるよう促します。そしてそう書き始めた文章を「ドラマ風に書く」ように勧めるのです。

このような「悲しさや困惑」についての書き出しは、子供に自分の気持ちに向き合う「呼び水」のように働きかけます。そして「ドラマ風に書く」ということは、たんに「悲しい」とか「困った」といった自分という一人称からの叫びに近い表現に留まらず、どういう状況で、どうして「悲しくなったり、困ってしまった」のか、そういう気持ちになった様子を、昨日見たアニメを思い出し、友達に話してあげるように描いてみなさい、というのです。

それによって自分の気持ち(情動の動き)を外から客観的に眺めて言葉にしようとするとき、アニメにはまって流されていただけの自分が、アニメについて友達に語って聞かせる自分にならなければなりません。このとき、ちょうど「口喧嘩」の後に、それを振り返って、どうして口喧嘩になったのか、そのいきさつを、アニメを自分で描くように、一コマ、一コマ、どんな表情で、何を言ったのか、何も言わずにいたのか、きっちり描写してみるのです。

書くことで不安も解消される

この自分の思いを書いてみて、漠然とした不安の中身がはっきりして、不安が消え、状況に的確に対応することができる、といった実例の一つとして、スポーツでの「メンタルトレーニング」の方法があげられます。コーチが大事な試合の前に相談を受けて、「何が不安か書いてくる」ように言われ、「書いてみたら不安が解消した」というのです。漠然とした不安に向き合い、それを言葉にすることで、練習を重ねてきた選手にとって「何をどうすれば良いのか」しっかり心を定めることができるのです。

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