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【共著者に聞く】日本人にもドイツ人にも「沈黙における伝達」は共通する

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【共著者に聞く】日本人にもドイツ人にも「沈黙における伝達」は共通する

職場の現象学 2020-06-16

2020年4月25日(土)の午後に『職場の現象学』のオンライン出版記念講演会が開催されました。露木恵美子ゼミの現役生や卒業生を中心に30人以上の方々が参加しました。

共著者である山口一郎と露木恵美子の対談後、参加者が4~5名のグループに分かれ著者への質問を挙げました。このシリーズでは、講演の中で答えきれなかった質問を中心に回答していきたいと思います。

質問:
日本人ならではの特有の場の見方はどのようなものか(ドイツなどとの比較があれば)

(今日の回答者:山口一郎)

日本:ある自閉症患者の「場」の例

「日本人に特有な場の見方」というご質問ですが、日本人の場合とドイツ人の場合の「場の感じ方」の事例をとおして考えてみたいと思います。

まず、日本人の場合ですが、松尾正『沈黙と自閉』という書物で描かれている事例です。松尾氏の病院に、重度の自閉症患者である田中(偽名)さんが入院してきました。田中さんは、寝ているベットに人が近づくだけで、パニックに陥ってブルブル震えが出るほどの重症の状態でした。松尾先生がベットに横になっている田中さんを「今日の病状は?」と眺めるだけで、震えがきてしまうのです。

ただ、田中さんに目を向けず、部屋の片隅の椅子に座って、田中さんのことは何にも考えず、「うつらうつらしている」ときにだけ、部屋にいさせてくれることに気づきました。目を向けずに「どんな具合か?」と考えただけでも、田中さんは、敏感にそのことを感じざるをえない様子なのです。 

何も語らず、相手のことも考えず、部屋の片隅で寝ているという時間が重ねられ、うつらうつらしていて、ふと目を覚ますと、田中さんも目を閉じて眠っていたり、目を開けて天井を見ていたり、そのまま、またうつらうつらといった時間が、1時間を超えたりしながら、その繰り返しによって、それが二人にとって馴染みのものになっていき、田中さんは、家族がもってきた「みかん」を黙って松尾さんに手渡し、二人で黙ってみかんを食べられるようになりました。院内を歩いて、二人で散歩できるようにもなり、「ポツリ、ポツリ」と言葉が交わされるようになっていったのです。

この経過をヨーロッパに由来する「沈黙療法」として書物に描いた松尾先生は、「うつらうつら」しながら二人が居合わせている状態を現象学の用語を使って「受動的間主観性」と名づけました。本書で述べられている、言葉以前の「情動的コミュニケーション」のことです。

身体と身体のコミュニケーション

この「沈黙治療」の以前、それまで二つの病院では、田中さんは、患者として先生の診断の相手として、見つめられ、語りかけられ、診察の対象とされてきました。医者と患者という社会における「意味づけ」と「価値づけ」という自我の意識をともなう能動的志向性が言語的コミュニケーションにおいて行き交っていたのです。

この松尾氏の「沈黙療法」で行われたのは、この言語的コミュニケーションの遮断であり、それによって、母と子の添い寝のように、お互いに「うつらうつらした」穏やかな安らいだ二つの身体がそこに居合わせることで、穏やかな呼吸のリズムが刻まれ、穏やかな時間がその身体と身体のあいだ(場)に流れます。穏やかな情動的コミュニケーションが復元し、再活性化され、それが次第に、確かなものになり、「ポツリ、ポツリ」と言葉を口にして、「自分の思い」を語ることができるようになり、言語的コミュニケーションの社会に復帰できるようになり、漁師として生活できるようになったのです。

ドイツ:ベンチに隣り合わせるふたりの「場」の例

では、ドイツ人の場合の「場」の例として、とある小都市の駅の前のベンチにたまたま黙って隣り合わせた(M.ブーバーの語る)二人の男の例があります。この例は、筆者がカウンセラーの学会で、ご紹介した事例であり、「理想的なカウンセラー像」として積極的に受け止められました。読者の皆さんはどのような感想をもたれるでしょうか。 

二人の男のうちの一人は「何が起ころうとも、それに開かれた態度でゆったり応ずる。・・・人はだだそこに居るのでは十分でなく、本当に居合わせているのでなければならないと語っているかのようである」と性格づけられ、他の一人は「しっかりした態度をわきまえた人物であるが、・・・彼の控えめな態度はその振る舞いそのものと異なって、振る舞いの背後に、どうしても自分を伝達できないもどかしさが潜んでいる」というのです。

この二人がたまたまベンチに隣り合わせるとき、二人目の男の「心をがんじ搦めにしている鉄鎖が完全に振り切れ、その呪縛が解け去る。・・・その人からある伝達が流れ出る。沈黙が隣り合わせていた前者にその伝達を伝える。・・・その人はそれを、彼に訪れるすべての真の運命と同様に、とどこおりなく端的に受けとめる」(山口一郎『他者経験の現象学』233頁以降を参照)というのです。

言葉を超えた事実的なものが交換されている

ブーバーは、このことを「沈黙における伝達」と名づけています。前の例と同じで、沈黙の中で何か大切なことが起こっています。しかし、ここでの沈黙は、寝ている人同士の沈黙ではありません。では、一人目の男の「すべてのものをゆったりと受け止める態度」とは、どのような態度であり、いったいここで何が起こっているのでしょうか。

ブーバーは、このような態度を人間の世界に対する「我−汝関係」と呼ばれる態度として、「言葉にならない、言葉を超えた事実的なもの」「意見や主張が討論の果てに沈んでいくゆくとき生じてくる事実的なもの」(M. ブーバー『対話的原理I』193頁参照)が交わされる、としています。しかもこの例では、何の言葉も交わされずに、沈黙という事実的なものが、そのまま二人のあいだに伝わっている、というのです。

日本人にもドイツ人にも「沈黙における伝達」は共通する

世界に直向きに、「無心に」向き合うこととしての「我−汝関係」という態度において、その向き合いさえ生じていない「沈黙における伝達」の例が語られています。その人のそばに居るだけで、生きる人の態度が変わるというのです。日本人であろうと、ドイツ人であろうと、人と人とのあいだ(場)には、言葉以前の幼児期の「我−汝関係」(松尾氏の「沈黙療法」の例)と、成人における「我−汝関係」(ブーバーの示す二人の男の例)が起こりうると考えられるのです。