【共著者に聞く】言葉を工夫することで分かりやすさを引き出す
2020年4月25日(土)の午後に『職場の現象学』のオンライン出版記念講演会が開催されました。露木恵美子ゼミの現役生や卒業生を中心に30人以上の方々が参加しました。
共著者である山口一郎と露木恵美子の対談後、参加者が4~5名のグループに分かれ著者への質問を挙げました。このシリーズでは、講演の中で答えきれなかった質問を中心に回答していきたいと思います。
質問:
今回の著書はとてもわかりやすく感じた。どのような点を工夫されたのか?
(今日の回答者:山口一郎)
共著者間での濃密な対話が本書を生む
これは共著者としての私の感想ですが、本著が成立した土壌、ないし地盤に、露木さんとの対談の積み重なりがあることが、叙述の仕方に決定的な影響を与えているのだと思います。語り合うとは、お互いの考えを伝え合うことであり、言葉の上での了解が、徹底して求められることに他なりません。語ることで、お互いに思いがけなかったことが言葉になってくる時の刻みは、新鮮な驚きに満ちたものになっていきます。
この本書の第三部での対話の内容は、第二部の四つの職場(「前川製作所」「巣鴨信金」「こころみ学園」「桜えび漁」)の具体的事例の経営学による論述のなかに組み込まれている「現象学による解説」に強く反映していると思われます。この「現象学による解説」は、個別に第一部の現象学の紹介と第二部の経営学による論述がそれぞれできあがった後に執筆されました。その目的は、第一部と第二部がどうつながっているのか、そのつながりが読者の皆さんにはっきりするようになるためでした。
現実世界を浮き彫りにした現象学の視点
多くの読者のなかに現象学を専門にする研究者の方がいらして、この「現象学による解説」が「とても新鮮に印象深く感じられた」という感想をいただきました。この新鮮さは、執筆者にとっても同様で、第二部の具体的職場の論述の背後に息づいている「人と人とのかかわり方」の現実(対話、共感、無心等々)が「現象学の視点(判断の一時停止、情動的コミュニケーションで働く受動的綜合、幼児期と成人において働く我−汝関係、本質直観など)」をとおして、浮き彫りにされてくるごとに、執筆の喜びと驚きを感じました。
厳密な言葉よりも伝わる言葉を選ぶ
他方、第一部の現象学の紹介という課題は、筆者にとって『現象学ことはじめ』という現象学の入門書を書き始めた頃から、難解とされる現象学の内容を、専門的な用語そのものの分かりやすい説明を工夫しながら、一般読者にどうやって「分かりやすく」伝えることができるのか、とても大きく、また重要な課題とされてきました。
この課題の重要さは、こうした表現の工夫そのものが、専門用語そのものの理解を深めることになるからです。たとえば、現象学の「判断停止」という用語を説明するさい、露木ゼミの方が、原稿を読んでくださったとき、「判断停止」は「思考停止」のように否定的に響くので、「判断の一時停止」がふさわしいのではないか、というご意見をいただき、なるほどと思い「判断の一時停止」を用語として活用することにしました。
分かりやすさは人々の生活に根差す言葉遣いから生まれる
つまり、分かりやすい用語の説明という課題を前にした専門研究者は、その現象学という専門領域においての訳語の的確性だけでなく、他の哲学の領域での用語の習慣(現象学において「思考停止」という用語は現象学的考察の放棄でしかありえません)をも考慮して、私たちの日常生活の中から具体的事例(本書では、「電車の急ブレーキ」や「口喧嘩」といったさまざまな実例)を取り出すことで、初めて分かりやすい用語の説明になるのです。ということは、文献に忠実に沿うことは当然のことですが、それ以上に、その用語が使用される原文での文脈(ヨーロッパの生活世界)を理解することがまず必要とされるのです。
20世紀の初頭にフッサールの『論理学研究』の出版から端を発した現象学は、ヨーロッパの生活世界に根ざしています。現象学はその成立の当初から、哲学としてその時代の主流となり、同様にヨーロッパの生活世界に根ざした他の諸学問(数学、論理学、社会学、精神医学、生命科学、芸術学、最近では経営学、スポーツ運動学など)に多大な影響を及ぼしてきました。
ですから、現象学を紹介するとき、それら現象学の影響を受けている諸学問の研究対象である実例をふんだんに活用することができ、それらの学問に関心のある読者にとって、それらの実例をとおすことは、現象学に入ってくる格好の手だてとなるのです。別の記事でご紹介したように 、現象学の精神医学への影響として、松尾正『沈黙と自閉』におけるフッサールの「相互主観性論」の果たして重要な役割が示されました。
スポーツ運動学に影響を与える現象学
最近出版された『<わざの狂い>を超えて』(金子一秀・山口一郎編、明和出版)における金子明友氏と筆者との対談では、フッサールの時間論がスポーツ運動学に大変大きな影響を与えていることが明らかにされました。
金子明友氏は、1960年ローマオリンピックでの体操男子団体の初優勝(その時のチームリーダー)に始まり、1976年のモントリオール大会まで体操男子団体総合5連覇をなし遂げた日本体操黄金期を導いた指導者でした。その金子氏は、コーチとして参加していた1958年モスクワでの世界選手権の際、その大会の直前、6人の正選手の内4人の選手が、それまで難なくこなしていた鉄棒の「宙返り下り」で突然、手が鉄棒から離れなくなる「わざの狂い」に襲われたのです。
フッサールの時間分析が克服に役立った
この「<わざの狂い>」は金子コーチの指導により4人ともそろって克服され、団体総合でソ連に次ぐ銀メダルを獲得することができました。そのとき、どのように克服されたのかの詳細は、対談の本文にまかせるとして、金子氏は、まとめとして「この〔わざの狂いの〕問題解決の核心は、宙返り開始直前の《今ここ把握》の時間化局面の確認を前提として、あふり作用の動感メロディーをシステム化して受動〔的〕綜合化に持ち込んだ時間化分析にありました」(同著49頁)と述べているのです。
「過去把持や未来予持における受動的綜合による時間の流れ」と表現されるフッサールの時間分析は、とても抽象的で難解と思われるかもしれませんが、この時間分析の厳密さこそ、体操競技における具体的な身体運動の実践を支えうる、他の哲学や諸科学の時間分析と類をもたない唯一の実効性をもちうる理論的支柱の役割を果たしているのです。