【共著者に聞く】無心になるとはどういうことか

2020年4月25日(土)の午後に『職場の現象学』のオンライン出版記念講演会が開催されました。露木恵美子ゼミの現役生や卒業生を中心に30人以上の方々が参加しました。

共著者である山口一郎と露木恵美子の対談後、参加者が4~5名のグループに分かれ著者への質問を挙げました。このシリーズでは、講演の中で答えきれなかった質問を中心に回答していきたいと思います。

質問:
山口先生のおっしゃる自分を無にするということはどういうことか?もう少し詳しく聞きたい。

(今回の回答者:山口一郎)

ヘリゲルの『弓と禅』にも書かれている

「自分を無にする」ということですが、『職場の現象学』では、「無心」という言葉で表現され、ドイツ人の哲学者オイゲン・ヘリゲル(1884-1955)の「無心に弓を引く」実体験の例が示されています。ヘリゲルは、東北大学に客員教授として招聘され、1924年から1929年まで哲学を教授しつつ、「弓禅一致」を標榜する阿波研造師範から弓を学び、五段を習得してドイツに帰国しました。阿波師範の指導のもと、「無心に弓を引くこと」が実現するまで「呼吸と一つになる」練習を重ねた実体験が『弓と禅』という書物で描かれています。この著作は、鈴木大拙の英文での著作とともに欧米の「禅ブーム」が起こったきっかけになった書物とされています。

この書物は、いまなお、日本で弓道に限らず、剣道にかかわる人々にも強い影響を与えています。私がミュンヘンに留学していた頃、ドイツ人とともに「剣道のグループ」を作り練習をしていて、毎年、日本からドイツに派遣されてくる大学や警察での剣道の指導者の方々のお世話をしておりました。そのとき、二人の指導者の方から、ミュンヘン近郊に位置するガルミッシュ・パルテンキルヘンにヘリゲルのお墓があるので、そこをお参りしたい、と依頼されました。弓道にかかわらず、剣道など他の武道に励む方々にとっても、この『弓と禅』で描かれている「無心になること」の実現が求むべき課題とされているのです。

何らかの感じや思いが無心になることを妨げる

この「無心になる」ということの現実が、もっともはっきりと描写されているのは、「自分の呼吸と一つになって弓を引くとき」と「雑念に襲われ、呼吸と一つになって弓が引けないとき」の決定的な違いの体験です。弓を引くには力が要ります。「弓を張って、いつ矢を放ってよいか」迷いが生じたり、「もう張っていられない」と感じた途端、「決まって呼吸に乱れが生じ」、腕に力を入れようとしたりして、「無心の弓」は実現しません。「何らかの感じや思い」が「完全に呼吸と一つになった身体の動き」を瓦解させるのです。「無心かそうでないか」が直接、身体運動の変化として実体験されてしまうのです。「無心になったつもり」とか「無心のふりをする」ことの無意味さが、自分の身体で「いやというほど」痛感されるのです。

それは、ちょうど、赤ちゃんとの添い寝のとき、母親が「もう寝たかなと思った」瞬間に、赤ちゃんがそれを敏感に感じわけ、目を覚ましてしまったり、『沈黙と自閉』で、松尾先生が病室で自閉症に病む田中さんの「今日の症状は?」と考えただけで、ベットに横になっている田中さんがパニックになってしまうのと同じように、「無心と雑念」の違いが、当事者の身体で直接、敏感に感じ分けられているのです。

赤ちゃんには雑念の起きようがない

赤ちゃんが寝入る前の「無心」と弓を引くときの「呼吸と一つになっているときの無心」には、当然、大きな違いがあるように思われます。D.N.スターンの発達心理学研究によると7ヶ月から15ヶ月にかけて、乳児に「間主観的自己感」(自と他に区別される主観の交流)が感じられるようになり、自己意識が形成されてくるとされています。それまでは、明確な「自分という意識」は、できあがっていないのですから、「自分にどう感じるとか」「自分ができる、できないとか」いう思いはそもそも生じていません。ですから、簡単にいうと「雑念」の起きようがないのです。

大人は容易に雑念に駆られる

ところが弓を引く大人であるヘリゲルは、「自分が弓を引き、矢を的にあてる」という自分に結びついたいろいろな思い(これが雑念と呼ばれる)から自由になれません。「いつどのように矢を放つのか」迷いに迷って、「無心」どころではなく、呼吸の乱れがおさまらず、阿波師範に助けを求めても、師範からは、「赤子の手のように手をひらけ」と言われるばかり。ヘリゲルが迷った挙句、ドイツで習っていた射撃のさいの指の動きのテクニックを黙って使用した途端、それを見ぬいた阿波師範は、黙ってヘリゲルから弓を取り上げ、彼を破門しようとしました。「呼吸に一つになる」という指示に従えないのであれば、師弟の関係は破棄されるというのです。

「呼吸と一つになる」ことで無心の弓が実現

懊悩するヘリゲルに阿波師範は「無心の弓」を直に示しました。蝋燭の火が吹き消された闇の中で二本の矢が放たれました。一本目の矢が放たれ、的に当たったその矢の羽を束ねる矢筈に、二本目の矢が突き刺さっていたのです。これを目の当たりにしたヘリゲルは、ただただ改めて迷わず「呼吸の練習」に没頭することで、大人のヘリゲルの手が、自己意識から解放された「赤ちゃんの手」になり、「赤子の手のように手をひらく」無心の弓が実現したというのです。

物事に我を忘れてなりきる時、無心は実現する

この「無心になること」は、武道で実現されるだけではありません。「物事に我を忘れてなりきる」というとき、自然に(無心に)自分の呼吸と一つになっている、その物事の集中にぴったりした身体活動が生じているというのが、いわゆる「心身一如」という無心の表現にもっともふさわしいのかもしれません。それが、職場で実際にどのように実現できるのか、問うてみたのが『職場の現象学』の執筆の一つの大きな目的なのです。

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