【共著者に聞く】俯瞰的に相手に棲みこむということ

2020年4月25日(土)の午後に『職場の現象学』のオンライン出版記念講演会が開催されました。露木恵美子ゼミの現役生や卒業生を中心に30人以上の方々が参加しました。

共著者である山口一郎と露木恵美子の対談後、参加者が4~5名のグループに分かれ著者への質問を挙げました。このシリーズでは、講演の中で答えきれなかった質問を中心に回答していきたいと思います。

質問:
相手に棲みこむ、大切さは感じていますが、あまりやりすぎてしまっては、俯瞰的になれなくなってしまう。そのような時にどう考えればよいでしょうか?

(今日の回答者:山口一郎)

そうしようと思わないのに自然とできるのが棲みこむこと

皆さんのご質問に向き合うのに、少し大きな休みが入ってしまいました。

今日お尋ねになっている「相手に棲みこむ、大切さは分かっても、やりすぎると俯瞰的になれなくなる」ということですが、いくつか確かめてみることで、どのような質問であるのか、はっきりしてくると思います。

まず「相手に棲みこむ」ということは、M. ポランニーが『暗黙知の次元』でいっている「相手に感情移入すること」だと思います。となると、いったい「感情移入って何だ」ということになり、簡単にいえば、「相手の気持ちになる」「相手の思いに共感する」といった言葉で表現されていることと推測されます。このとき、質問なさっている方が「あまりやりすぎると」とおっしゃるとき、言い方にもよると思いますが、「棲みこむ」ことを「する」「やる」というのは、「自分のやり方次第だ、自分の自由になる」というように聞こえるのですが、本当にそうなのでしょうか。

相手の気持ちになることは、毎日の生活で自然に生じていることです。テレビでチャンネルを切り替えるたびに、写っている人々のさまざまな表情(嬉しそうな、悲しそうな、怒っているような、楽しそうな、などなど)が否応なしに自分に乗り移ってきて、自然にその表情に同調してしまいます。別に「棲みこもう」とする必要さえありません。自然に情が映ってしまうのです。

やろうとしても「やれない、できない」棲みこみがある

とはいえ、ポランニーは、他の「棲みこむ」例として、鉋掛けの名人に弟子が「棲みこもう」と努力する例を出しています。名人の道具の使い方、身体の身のこなし、材木への身体の向け方、身体を動かす時の呼吸の仕方、見れば見るほど、いくら名人の身体と一つになってその動きをマスターしようとしても、そう簡単に名人の身体に棲みこむことはできません。

同じような例で、剣道に「見取り稽古」という練習の仕方がありますが、自分で練習を積んでいないと、上達した人の動きを「見て取る」ことなどできません。スポーツにしても、ダンスにしても、その動きが自分の動きになったとき、初めて、本当の意味で「棲みこむことができた」といえるのです。

「棲みこみたくない」のに、相手の表情に心が動いてしまうことから、いくら師匠の身体に「棲みこみたくても」棲み込めないことまで、「棲みこみ」といっても千差万別のようです。 言い換えれば、「棲みこむこと」は、自然に起こっていたり、いくら棲みこもうと思って努力してもなかなか実現できない棲みこみもあるのが、本当の「棲みこみ」ではないでしょうか。

棲みこむことで暗黙知と形式知を行き来する

またポランニーは「棲みこみ」の別の例として、数学者に「カエルに棲み込め!」という例をだしています。数学者といえば、この世界の現実を、それこそ、「俯瞰的に、抽象的に、全体的に」見通して、その現実を現実にしている(暗黙知に対して)形式知としての数式を発見しようとしています。その数学者にポランニーは、「自分の数学の理論(形式知)が正しいかどうか確かめたければ、ピョンピョン跳ねてるカエルになれ(棲みこめ)」というのです。いったいポランニーは、ここで何をいいたいのでしょうか。

これを考える上で分かりやすい例は、2001年アカデミー賞受賞の映画『ビューティフル・マインド』で、天才数学者ジョン・ナッシュが、学食で大学一の美人学生にどうして男子学生が近づこうとしないのか、観察によって後に「ナッシュ均衡」といわれる規則性を発見し、統合失調症に苦しみつつも、「ゲーム理論」への貢献により、1994年ノーベル経済学賞を受賞したという例です。

このとき「ナッシュ均衡」を発見できたのは、何の苦労もせずに、その美人学生と複数の男子学生に成れた(棲みこめた)からです。何をどうしたいのか、学生の気持ちが分かるからです。

「カエルに棲みこめ!」というのも同じことです。ポランニーは、「数学者がカエルを見たとき、カエルという現実の暗黙知がそこに与えられ(棲みこみが生じ)」、形式知である数式を作成した後に、「その数式がどの程度、カエルの現実に適合しているか、確かめたければ、もう一度、カエルをよく見てみろ!」といっているのです。カエルの暗黙知をもう一度体験し、俯瞰的であるべき数式(形式知)が通用するか、見極めてみろ、というのです。

形式知は暗黙知に満ちたこの世界にどこまで迫れるか?

ということは、ナッシュは、女子学生と男子学生との関わり方という暗黙知を、苦労もせずにそのまま受け止め、その現実に通用する数式(ナッシュ均衡という形式知)を発見し、この規則性が「ゲーム理論」という現実の読み解きに役立ったというわけです。しかし、ゲーム理論がどこまで男女の学生の付き合い方の現実に迫れているかどうか、まったく、眉唾です。いったい、どこの国の男女関係でしょうか?ヨーロッパ?アジア?アフリカ?いったい「ゲーム理論」と言っても、いったいどこの国の経済活動を分析しようとしているのでしょうか。「カエルに棲みこめ」というとき、そのカエルは、雨蛙?ヒキ(ガマ)ガエル?ウシガエル?数式(形式知)は、どこまで人間やカエルの生きる具体的な(暗黙知に満ち溢れた)現実に迫ることができるのでしょうか?

形式知で人の現実の人の生活にどこまで迫れるか?

私たちの身の回りにいつでも居合わせている深遠なる暗黙知の現実に、数式で迫ろうとする試みは、フッサールによって「生活世界(日常世界)の数学化」と名づけられます。もちろん、数学による現実の制御は、生活の便宜上、大切なことは分かっています。しかし、フッサールは、数学による形式知が、そもそも日常生活の現実に与えられている暗黙知における意味づけと価値づけ(「カエル」や「男女関係」の暗黙知)を出発点にしていることを忘れてはならないと警告します。具体的なカエルや具体的な男女関係に含まれる暗黙知の豊饒さは深遠であり無窮であり、中途半端な形式知(数学に限らない、ありとあらゆる学問理論の俯瞰性)を突き返し、もう一度「カエルになれ、人間の現実をよく見ろ」と出発点にした暗黙知に立ち戻れ、といっているのです。あなたは、人々の生活を現実の生活にしている他の人々との出会いが、数式で表現できる、脳科学で証明できると本当に思えますか?

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