共著者 山口一郎の、出版への想い(Ⅱ)

『共著者 山口一郎の、出版への想い(II) 』と題して、共著者である山口一郎のインタビューをお届けします。前回のインタビューでは、本書を書くきっかけとなった出来事、日本の職場の現場に実際に入っていくことで感じたこと、そして現象学は「人が働く」ということに対してどう寄与できるのか、などを聴きました。

今回の記事では第1部でご紹介した現象学の特質や方法論について聴きます。

山口:出版の思い(I)では、現象学の出発点がデカルトの「我思うゆえに我あり」という「自己意識」の確信にあるとされました。しかし、この「我思うゆえに我あり」の「我あり」というときの「我」は、現象学が始まった初期の頃には、フッサールにとって重要な問題ではありませんでした。というのも、フッサールにとって決定的に重要であったのは、「自分がいる」という「自我の存在」ではなく、「感じ思った瞬間」の「感じ思われたこと(その内容)」と「感じ、思ったことそのことそのもの(その働き、ないし作用)」の確実さなのでした。

ですから、第1章から、強調されたように、各自のそのつどの瞬間に「実感」として与えられている体験の中身を「何」が、つまり「感じ思われたその内容」と、「どのように」「感じ、思った」のか、その働き方が問われることになったのです。

そしてはじめに出された実例が「電車の急ブレーキで隣の人の足を踏んでしまった」という例でした。職場の人間関係の成り立ちを現象学をとおして考える上で、この例は、多くの現象学の特質を示すことができるのです。

これからこの「現象学の特質」について、4つの点から考えてみようと思いますが、その説明の途中でも構いません。ご質問があれば、いつでもお聞きください。

まず第一の点なのですが、デカルトで哲学の出発点とされた、「瞬時の思い」の確実性が、「先に足が動き、直後にそれに気づいた」ことが絶対間違いないことから、前後という二つの瞬間の確実性が実感されているということが言えます。つまり「瞬時の思い」の瞬間というのは、幅のない「時間点」なのではなく、「幅のある現在」であり、その「幅のある現在」において確実な実感が起こっていることが示されたのです。「瞬間の思い」の確実性が、「時間の幅のある現在の思い」の確実性に拡張されたのです。

――さっそく、この第一の点について説明をお願いします。デカルトが「瞬時の思い」というときと、「電車の急ブレーキで隣の人の足を踏んでしまって、“しまった”と思う」ときの「瞬時の思い」といったい、どこがどう違うのでしょうか?

山口:ご質問ありがとうございます。確かに「瞬時の思い」ということでは、「電車の急ブレーキ」の場合も「しまった」という思いは、瞬間に起こることですから、デカルトのいう「瞬時の思いと考え」となんの違いもないように思われるかもしれません。しかし、「何が、どのように」と自分に問うてみると、「しまった」と思うときと、「わざと何かをする」ときと、「出来事が起こってしまった」のか「出来事を起こした」のかの実感の違いは、私たちは間違いなく実感として感じ分けていると思います。これが「過失か故意か」の違いです。

そしてこの「過失」の場合、過失が「どのように」過失として感じ分けられているか、問えば分かるように、「出来事が先に起こり、そのことに直後に気づいた」という時間の前後関係、つまり、「前(先)」という瞬間」と「後」の瞬間という二つの瞬間(つまり時間の幅)が区別されています。それに対してデカルトが「我思うゆえに我有り」というときには、その「瞬時の我の思い」の確実性としてしか保証されていないからなのです。

――なるほど、そして「わざとの場合」、「出来事を起こそう」と思ったその瞬間の自分が、「我有り」として実感されているというのですね。「故意か過失か」区別できずに社会生活は送れませんし、出来事と自分の行動との前後関係の実感の大切さは実感できます。このまま2番目の点についても教えてください。

山口:この二つ目の論点は、いま述べた、人間関係にとってもっとも重要な判断基準である「故意か過失か」の区別に直接、関係しています。それは、急ブレーキがかかった「幅のある現在」において、踏んだ人と踏まれた人のあいだに「わざとではない」と共に実感されている、「わざとではない」と意味づけられ、価値づけられていることです。こうして脳科学や他の自然科学で解決しようもなく、また解決しようともしていない「故意の随意運動」か「過失による不随意運動」かの区別が、「意味づけと価値づけ」を「志向性」と呼んで、「無意識に起こる受動的志向性」と「意識されている能動的志向性」の「何」と「どのように」という二つの問いをとおして、各自の実感に迫ることのできる現象学研究の特徴が明らかにされたのです。

――すいません。どうして脳科学や自然科学は、「故意か過失か」といった「意味づけと価値づけ」の区別を解決しようとしないといえるのですか?

山口:1980年代、アメリカでピークに達したといわれる「嘘発見器」がありますが、大事な裁判で使用された試しはありません。それどころか、「音と色」という感覚質の違い(区別)すら、脳科学によって説明(検証)できないと、脳科学者自身が語っているからです。

――いわゆる茂木健一郎さんの本で有名になった「クオリア」の問題ですね。では次の点について、説明をお願いします。

山口:三つ目の点は、「意味づけと価値づけ」である「志向性」の成り立ちを解明しようとするときの現象学の「具体的方法は何か」という論点です。この方法は、大きくみて「判断の一時停止」と「本質直観」の方法に分けられます。「判断の一時停止」について、第4章では実例として、「口喧嘩の事後的反省」をあげ、人間関係の問題に懊悩する「あなた」に、無自覚に濁流のように絶え間なく流れる「意味づけと価値判断」の流れにストップをかけ、判断の連鎖を断ち切り、いったい自分は「何をどうしたいと思っているのか」、そのときそのときの自分の判断の成り立ちを徹底的に分析し尽くしてみる方法が提案されました。そこで自分の担う受動的志向性と能動的志向性の全体を正面にすえ、それがどのように形成されてきたのか、第5章にある「赤ちゃんだった自分に戻って」、志向性の源泉にたどろうとする発生的現象学の分析を実践するよう提言しているのです。

――「口喧嘩の事後的反省」はできても、毎日の仕事の中で、刻々と分刻みで判断を要求される職場で、「判断の一時停止」は、とてもじゃないけど、やってられません。仕事が滞ってしまいます。判断を続けながら「志向性」を解明できないのでしょうか?

山口:30年ぐらい前だったでしょうか、ドイツのヴィッテンヘルデッケ大学の学生たちとトヨタの自動車工場を見学したとき、トヨタの方の説明で、流れ作業のとき、何か異常が起こるとアンドンが点いて、流れが止まり、作業員がそこに集まり、問題が解決されるまでとことん話し合い、作業員は「それを楽しんでいる」という話を聞きました。話し合いのあいだ、もちろん、いくら損失が生じようと、流れは止まったままです。作業に習熟している作業員にとって「起こるはずのない異常」の真の原因を考え尽くすことは、「謎解きのように楽しい」というのです。 皆さんが職場の人間関係に悩むとき、自分の判断の流れに、たえずアンドンが点いているようなもので、心の異常が点滅し続けています。流れ作業だったら機械ですので、すぐに止めて異常の原因を解決することもできますが、人間の心はもっと複雑です。育休で、泣きやまない赤ちゃん(点きっぱなしのアンドン)に困り果てるとき、流れ作業に習熟した作業員が、機械を止めて、動いているときの機械になりきれるように、あなたは「泣いている赤ちゃん」になりきれますか?「口喧嘩の事後的反省」という「判断の一時停止」の一事例は、第5章にある「赤ちゃんだった自分に戻って」人間関係の喜びと悲しみの源泉にたどろうとする発生的現象学の入り口を意味しているのです。

――なんとなく、お話の見当はつくのですが、「判断の一時停止」について書かれている第4章をもう一度、読み直してみます。このまま、現象学の特徴の最後の4番目の点についての説明をお願いします。

山口:この最後の点は、現象学の方法として挙げられている「本質直観の方法」とはどんな方法かという論点です。本質直観の方法は、大きく「事例収集」と「自由変更」の二段階にまとめられます。このとき当然のことといえるのは、本質直観は、決して孤立した個人、たった一人の天才の中で生じることではないことです。このことは、人間関係の本質を解明しようとするとき、「事例収集」にさいして、複数の人間による「我−それ関係」に根ざすすべての学問研究の成果を積極的に取り込み(現象学は自然科学を排除するのでないことは明白です)、他の人々の人間関係にかかわる経験談に耳を傾けることからして明らかです。

また、「自由変更」のさいには、積極的に想像力を最大限に活用して、単なる事実(ファクト)の集積によって見えてこない無意識に働く暗黙知の領域にまで踏み込み、知の創造の方向性が示されることになるのです。こうして第10章では、本質直観がSECIモデルによる暗黙知と形式知の相互の関わりをとおした相乗的創造のプロセスに相応していることが示されています。この相応関係を明確に理解することが、職場における人間関係の本質を明らかにするための重要で決定的な観点となっているのです。

――「本書」に書かれてはいるのですが、この本質直観の「事例収集」と「自由変更」をもう一度、簡単にまとめて説明していただきたいのですが。

山口:分かりました。現在、準備している「用語集」の中から、「本質直観の方法」の項目を参照にして、この二つを説明してみましょう。時代と文化圏の違いにもかかわらず普遍的に通用する真理である、ものごとの本質(たとえば「人間関係の本質」)がすべての人に実感(直観)できるためには、まずはこの「人間関係」に関して、心理学や社会学、民俗学など学問研究が明らかにしてくれる「事例研究」を収集します。これが事例収集で、そのとき脳科学研究や生物学や医学など自然科学の「事例研究」も含まれます。それだけでなく、友達の語る「人間関係の悩み」など、多くの人々の人間関係にかかわる実体験といった実例もこの事例に属するのです。

この事例収集を前提にして、これらの事例や実例を自由奔放にヴァリエーション(変更)してみる方法が「自由変更」の方法と呼ばれます。文学作品や芸術表現、アニメやSFなどがこの「自由変更」による「創造力の結晶」ということもできるでしょう。この「事例収集」と「自由変更」による本質直観の方法が、SECIモデルにおける「暗黙知と形式知との相互関係」による螺旋状に展開する知識創造のプロセスと相応していることが本書で描かれていますので、ご熟読ください。

以上、「職場の人間関係」の解明のための「現象学の方法の特質」についての説明をここで終えることにしたいと思います。もちろん、読者のみなさんがおもちになる疑問点がありましたら、いつでも、ご連絡ください。喜んでお答えいたします。

この「出版への思い」は、まずはこの(I)と(II)で終了することにし、この「読み物」の欄では、講演会などをとおしてみなさんからいただいた一つ一つのご質問をテーマにして、現象学によってより深く感じ分けられていく世界を、みなさんとともに共有していきたいと思っています。

Follow me!