【共著者に聞く】子どもの頃に体得したものは大人になっても忘れていない(前編)

2020年4月25日(土)の午後に『職場の現象学』のオンライン出版記念講演会が開催されました。露木恵美子ゼミの現役生や卒業生を中心に30人以上の方々が参加しました。

共著者である山口一郎と露木恵美子の対談後、参加者が4~5名のグループに分かれ著者への質問を挙げました。このシリーズでは、講演の中で答えきれなかった質問を中心に回答していきたいと思います。

質問:
なぜ大人になると伝染泣き・間身体性・受動的志向性を忘れてしまうのか

(今回の回答者:山口一郎)

赤ん坊の頃の伝染泣きや間身体性や受動的志向性は忘れていない

「なぜ大人になると伝染泣き・間身体性・受動的志向性を忘れてしまうのか」というご質問ですが、今回は、このご質問に、ご納得いただけるように、2回に分けてお答えしたいと思います。

まずは、「忘れてしまう」とお考えの「伝染泣きや間身体性や受動的志向性」は実は、「忘れてなんかいない」のです!「映画を見て、泣いたり笑ったり、主人公になったつもりになれるのはどうしてでしょうか」?それは、伝染泣き・間身体性・受動的志向性がいまでも、気づかれ、意識されることなく働いているからなのです。「忘れてしまっている」と思うのは、おそらく、自分で考えられる、意識できることだけが、自分の生活の現実である、と思っていらっしゃるからではないでしょうか。

本当の問は「なぜ覚えていないのか」ではないか

あるいは、「忘れてしまう」ということでおっしゃりたいのは、「伝染泣きや間身体性や受動的志向性が働いていたこと」を覚えていないのは、どうしてですか、というご質問なのかもしれません。とすれば、そのご質問は、どうして立って歩けるようになったのか、覚えていないとか、どうして言葉(母国語である日本語)を話せるようになったのか、覚えていないことと同じように、「伝染泣き、間身体性、受動的志向性」を生きてきたことを覚えていないのは、どうしてなのか、というご質問なのかもしれません。

私たちは随意運動の能力の獲得過程を覚えていない

そうだとすれば、一般的にいえば、幼児から大人になる発達の段階につれ、それぞれの発達段階でいったい、何が記憶に残っているのかと問われることになります。この発達段階で、もっとも重要な段階と思えるのは、自分の身体を動かしたいように動かせる随意運動の能力を獲得できる段階だと思います。ところが、どうやってそれができるようになったのか、まったく私たちの記憶に残っていないのです。

それにもかかわらず、繰り返し出されている「電車の急ブレーキでの自分の足の動き」の例にあるように、先に足が動いてしまった不随意運動の場合と、わざと意図的に足を動かす随意運動の場合の区別は、絶対間違いなく、自分で感じ分けられています。この随意運動による自分の自由な行動に責任をもつという社会生活での倫理的基準がどのようにはっきり自覚できるようになったのか、その基準がどのようにできあがってきたのか、自分自身、しっかり覚えていないのです。

その過程をフッサールが説明しようと試みている

その覚えていない記憶をあえて遡って、自分で自分の身体を動かすときの運動感覚が感じられるようになったその経過を、誰もが納得できるように説明できる、とするのが、フッサールの描く「ゼロの運動感覚の意識の生成」についての説明です。それは、生後8ヶ月を頂点にする赤ちゃんの発する喃語(言葉にならないリズミカルに繰り返される発声)を母親が真似るという母子間の喃語の模倣の例による説明です。

自分が喃語を発する時、声を出す感覚も伴う

乳幼児と母親とのあいだで交わされる喃語の模倣をとおして、“自分”(自己意識が生じる前ですので、“ ”がつけられている)が喃語を発するときの“運動感覚”とそのときに聞こえる喃語の“声”(“ ”が付いているのはまだそれとして区別されて意識されていないから)がいつも「対(つい)」になって感じられています。“自分”が喃語を発すれば、いつでも繰り返し、「“運動感覚”-“声”」が対(ペア)になって(「連合」してともいわれる)一緒に感じられているのです。

母親が喃語を真似た時に声を出す感覚が伴わないことに驚く

ところが、よろこんで母親と喃語を模倣しあっていた赤ちゃんが、何に驚いたのか、キョトンとした表情で、喃語を止めて、母親の口元をじっと見つめて、ときには母親の口元に手で触れようとするのです。赤ちゃんでも大人でも、人は何かに驚くとき、何らかの「意外さ」に驚き、「予想外」に驚くものです。では、赤ちゃんは何を前もって思い、何を予想していたのでしょうか。

“自分”が喃語を発するとき、いつも“運動感覚”と“声”は一緒に対(ペア)になって(連合して)「“運動感覚”-“声”」というように感じられていたのですから、その上手に真似られた喃語の“声”が聞こえれば、それといつも一緒に対(ペア)になって感じられているはずの(予想された)“運動感覚”が感じられない(予想外)に驚くのだ、と説明されます。この感じられない運動感覚が「そこにない、欠けた“運動感覚”」として、「ゼロの運動感覚」と呼ばれるのです(詳細は『現象学ことはじめ』第7章 心と身体が育つこと、を参照のこと)。

他者が動いても運動感覚を感じられない

赤ちゃんは、一旦、この「ゼロの運動感覚」に気づくと、喃語を何回繰り返し、お母さんがそれを何回繰り返し真似てくれても、お母さんの喃語には、運動感覚が欠けたままであることが、いつも確かめられることになります。そしてこの自分の身体で感じられる運動感覚は、声を出すときだけでなく、手足を動かしたり、ハイハイするときとか、自分の身体が動くときにいつも感じていることに気づきます。それと同時に、母親や父親、身の回りの人々が身体を動かしているのが見えても、自分の身体の動きのように、運動感覚を直接、感じることはないのです。

自他の区別をつけ、随意運動を獲得する

こうして現象学では、母子間の喃語の模倣をとおして、赤ちゃんが「ゼロの運動感覚」に気づくことで、身体が動くとき運動感覚が感じられる自分の身体と、動いているのが外から見えても、直接、運動感覚を感じない他の人の身体との区別がつくようになり、運動感覚を感じつつ動きをコントロールできる随意運動ができるようになり、その自由な随意運動に責任をもてるようになると説明されるのです。

皆さんは、この説明をお聞きになって、どんな感想をもたれますか。たんに大人になった人にとってもっともらしい説明だとして、そうじゃなければならない必然性はどこにあるのか問われるかもしれません。この必然性について、後編でお答えします。
後編はこちら

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