human rights

【共著者に聞く】コロナ禍の中で思う、人同士が認め合うことの究極は人権だということ

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【共著者に聞く】コロナ禍の中で思う、人同士が認め合うことの究極は人権だということ

職場の現象学 2020-05-25

2020年4月25日(土)の午後に『職場の現象学』のオンライン出版記念講演会が開催されました。露木恵美子ゼミの現役生や卒業生を中心に30人以上の方々が参加しました。

共著者である山口一郎と露木恵美子の対談後、参加者が4~5名のグループに分かれ著者への質問を挙げました。このシリーズでは、講演の中で答えきれなかった質問を中心に回答していきたいと思います。

質問:
人と人とが認められる関係が最近希薄になってきているが、以前のような人と人とのつながりを戻すことに必要なことは何でしょうか。

(今日の回答者:山口一郎)

「家族愛」と「人類愛」

「人と人とが認められる」ということと「人と人とのつながり」という「認め合い、つながり合う」ということで何が表現されているかを、まず考えてみましょう。

そこで私に思いつくのは、この二つの言葉の意味内容がともに含まれている言葉として、「愛」という言葉です。この愛という言葉は、「家族愛」と「人類愛」という二つに大きく区分けしてみることで、より具体的にイメージすることができるでしょう。

繋がりが失われて初めて、「認め合っていたこと」を実感する家族愛

人として「認め合い、つながり合う」というとき、家族愛と人類愛において、その二つの意味の比重が異なっているように思われます。家族における夫婦や親子関係において「夫婦や親子」として互いに「認め合っている」というとき、実は、その前に、その関係そのものが、先に「つながり」としてできあがっているのではないでしょうか。

そのできあがってきた「つながり」が、欠けてしまうことで、その「つながりの深さと強さ」が、お互いに確かめられ、「認め合っていた現実」に気づくというのが、家族愛の現実の適切な表現であるように思われます。

すでに結婚して家族になる前、遠距離恋愛のような好きな人と離れて過ごさなければならないとき、当たり前に過ごしていた相手とのそれまでの日常が欠けることで、それまでにできあがっていたその人とのつながりの深さが痛感されます。地方を離れ都会で大学生活を送っていて、コロナ感染のため、帰郷できなくなったとき、今まで気づいていなかった「深い家族とのつながり」が痛切に思い知らされます。

人同士が認め合うことで繋がりが生まれる人類愛

それに対して「人類愛」というのは、まずは人間同士であるという「人が人として認め合う」というところから出発して、認め合った人々のあいだに「つながり」が生じてくるものです。

人類愛は文化と言語の違いを超えて広がる可能性を秘めていますが、その可能性が満たされるためには、家族愛の枠組みを超えた「人が人であること」の「意味と価値」の共有が前提になります。家族の中で自然に話せるようになった母国語の世界が学校生活をとおして社会生活へと拡張していき、外国語で話される異国の文化に育った人々とのコミュニケーションが要求されるような現代の時代状況にあって、人類愛の「意味と価値」の共有が試されることになります。

人同士の認め合いは情動的コミュニケーションの経験の中で培われる

「人が人であることを認め合う」とはどういうことでしょうか。人が人として生きるということの基盤は、すでに家族愛の中で実現されていました。それは、家族の中で、言葉になる以前の情動の変化を共感し合って共に生きるということです。

この情動の共感は「情動的コミュニケーション」と呼ばれ、この人が共に生きる基盤において体験される自分の「感じや思い」が言葉をとおして確かめられ合い、「慰めあったり、励ましあったり」する経験が家族の中で重ねられていきます。

言葉を伴うことでより深い他者の共感の可能性が開ける

さらにこの経験は、言葉を語り、文字に表現されることで、自分に限られた経験を超え、言葉をとおして共感をともにし、ともに考えることで、他の人々の経験の幅と深さを共有することができる可能性が開けてきます。情動的コミュニケーションの世界を土台にして、豊かな言語的コミュニケーションの世界が形成されてくるのです。

人同士が認め合うことの究極は人権

「人が人であることを認め合う」ことの「意味と価値」は、人が人であることの権利として「人権」という言葉で表現されています。この人権とは何か、その共通認識がすべての人間に心底から納得できたとき、「人権の本質直観」が実現されたと、フッサールの現象学でいわれます。このとき「すべての人間」ですから、世界中の人々の文化と言語の違いが前提にされていることになります。

世界中の人は「人の命の価値」という普遍的価値観で繋がっている

日本人にとって、アメリカ人にとって、中国人にとって、といった文化の違い、あるいは世界観の違いを過度に強調して、「人権の本質直観など不可能だ」と主張することは、「人権の本質直観の実現」にとって、たんなる「言い訳(徹底した反省の欠如)」であり、文化相対主義という怠惰な思考停止(「判断の一時的停止」の真逆)に他なりません。

文化相対主義の「無能な狭隘さとその限界」が暴露されるのは、「人の命の価値と尊厳」をめぐって「世界規模の疫病の大流行(パンデミー)」の克服をめざす世界中の人々が共有するこの普遍的な価値観の現実が突きつけられるときです。

人間は、日本人であろうと、アメリカ人であろうと、中国人であろうと、「家族の死」を嘆き悲しみ、他国の人々の「家族の死」の「嘆きと悲しみ」を心底、共感し合っているのです。世界中の人々はパンデミーの克服を目指すことで、国境を超え、「医療の現場で働く人々」や「ワクチン開発に邁進する研究者たち」などをとおして深く、強くつながっています。「人の命の価値」という普遍的価値観によるつながりです。家族愛を土台にする人類愛の実現が目指されているといえるのです。