オンラインコミュニケーション

【共著者に聞く】オンラインでのコミュニケーションに情動的やり取りは不要!?

オンラインコミュニケーション

【共著者に聞く】オンラインでのコミュニケーションに情動的やり取りは不要!?

職場の現象学 2020-06-04

2020年4月25日(土)の午後に『職場の現象学』のオンライン出版記念講演会が開催されました。露木恵美子ゼミの現役生や卒業生を中心に30人以上の方々が参加しました。

共著者である山口一郎と露木恵美子の対談後、参加者が4~5名のグループに分かれ著者への質問を挙げました。このシリーズでは、講演の中で答えきれなかった質問を中心に回答していきたいと思います。

質問:
オンラインでのコミュニケーションが増える中、どのような形で情動的なやりとりを行なっていけばよいでしょうか?

(今日の回答者:山口一郎)

マスメディアの視聴もオンラインコミュニケーション

ご質問の内容は、「オンラインでのコミュニケーションでは、情動的なやりとりは難しい。どうすればオンライン上で、衝動的なやりとりが活発になるのか」ということを意味していると思われます。確かにそうかもしれません。しかし、このとき、オンラインという枠組みを「オンラインでの会議や討論、メールのやり取りなど」から、マスメディアによる「ドラマや映画のテレビ放送を観る」ことにまで拡げて考えてみると、情動的コミュニケーションの可能性は膨大なものになります。

もちろんテレビドラマを観ることと、オンラインで打ち合わせをすることを、同じように、「情動的コミュニケーションを土台にする言語的コミュニケーションにおいて生じているコミュニケーション」ということはできても、その性格は大きく違っているようです。

「何」が問われるとき、情動的コミュニケーションは不要

優れた映画やアニメなどの場合、「引き込まれるようにそれに見入っている」「知らずに主人公になりきっている」のです。

それに対して、「オンラインの会議」で何かが決められなければならない場合、何が「会議の案件」となっているかが、真剣に問われます。情動的コミュニケーションは余計です。

親子関係や兄弟・姉妹の関係を源泉にする「上司と部下」「先輩と後輩」など「情動的忖度」は、「何」が問われ、「誰」が問われていないとき、どうでもいいことです。これは、映画やアニメの作成のときも同じです。究極的には、「誰が」などどうでもよくなるところで仕事ができあがるのでなければ、人が感動する映画やアニメはできあがりません。仕事に集中しているとき、「自分が、相手が」などという思いは吹き飛んでいます。 オンラインをとおしてであれ、映画やアニメの作成の現場であれ、共創的仕事が実現するのは、究極的な言語的コミュニケーションが実現するときといえます。このとき幼児期に形成されてきた豊かな情動的コミュニケーションの内実(それまで蓄積されてきた自分の暗黙知の全体)が、言語的コミュニケーションの領域で結晶化するのです。

言葉で表現されたもの(形式知)を支えるのは、暗黙知の感じ合い

オンラインで問題解決が求められ、すべてを言葉にしようとして、ギリギリのところまで突き詰めることをとおして、言葉にならない「不安や予感」に気づくことがあります。自分の中に知らずに育って蓄積してきた暗黙知の全体が、不安や予感として何かを告げているのでしょうか。

オンラインの話し合いの中で、このような「不安や予感」が言葉にされるとき、オンラインで同席している各自は、お互いに、この各自の感じ(感覚)を100%信じることができるでしょうか?信じるというのは、「信用する」というときの「信じる」ですが、精確に述べれば「そのまま直接、感じる」ということです。「その人の感覚になる」ということです。

お互いに言葉と数値で表現される形式知をつき合わせて、ぶつけ合い、問題解決を求めるとき、形式知を下支えしている暗黙知同士の感じあいが生じているともいえます。「ちょっと、それ違うんじゃない?」「なんだか腑に落ちない」とかいわれるとき、言葉を尽くした後の、言葉にならない「不安や予感」がどこまで各自の「共感」となり、その共感の共有をベースにして、新たな形式知の共有としての問題解決が開けてくるのかが、問われているのです。

暗黙知の集合が形式知で解けない異常を解き明かす

オンラインから場面が変わり、「出版の思い(II)」で事例として出されたトヨタの流れ作業でアンドンが点くとき、熟練工が集まって、問題解決を探ります。そのとき、「起こるはずのない異常」に直面する作業員にとって、作業全体の形式知を100%出し合っても、「起こるはずのない(言葉と数値による形式知に表現されていない)異常」の原因は、たやすく解けません(「アンドン方式」について『直観の経営』243頁から246頁を参照)。そのとき、その異常という現実に遭遇した作業員が本能的に総動員するのは、熟練した作業の経験に蓄積している各自の暗黙知の全体です。

暗黙知が形式知の正確さを教えてくれる

「暗黙知による棲み込み」を主張するM. ポランニーは、形式知の極致ともいえる「数学の理論」の真理値を確定したければ、「ピョンと飛ぶカエルになって(棲み込んで、感情移入して)みろ!」というのです。カエルになれているその暗黙知が、自分の構築した数学理論がどれだけのものか、判定してくれるというのです(「暗黙知と形式知」について『職場の現象学』第一部第10章を参照)。

暗黙知を感じ合うことで新しい形式知が生まれる

流れ作業の行程に習熟している作業員は、動いている機械になりきることは、おてのものです。しかもそれぞれの作業員は、その作業行程を、様々な条件の違いの中で経験し尽くしています。それぞれ異なる暗黙知の全体に秘められた「お互いの感覚(不安や予感)になる(100%信じる)」ことで、その共感を共有することから、新たな形式知(問題解決)が生まれてくるのです。

行き詰ってからが情動的コミュニケーションの始まり

こう考えてきて見えてくるのは、第一に、オンラインでの打ち合わせで、本当の問題解決に迫ろうとするとき、究極の言語的コミュニケーションの実現に向かうことで、各自の形式知の限界に達し、そのことをとおして、各自の情動的コミュニケーションの土台に培われてきた、隠れて働いている各自の暗黙知の共感の可能性が開かれてくることです。次に、その共感が生じることで、改めて世界との情動的つながりを確認し合い、深め合う(再活性化する)ことができるということなのです。