【共著者に聞く】子どもの頃に体得したものは大人になっても忘れていない(後編)

前回の記事「子どもの頃に体得したものは大人になっても忘れていない(前編)」では、「なぜ大人になると伝染泣き・間身体性・受動的志向性を忘れてしまうのか」という質問に対して、「大人になっても忘れてはいない」と回答しました。そこから、「母子間の喃語の模倣」を例に、人間がどのように随意運動の感覚を獲得していくのかについても説明しました。

今回の記事では、前回取り上げた、「赤ちゃんが「ゼロの運動感覚」(自分以外の人が声を発したり手足を動かしたりしても運動感覚が伴わないこと)に気づき、自分の身体だけにこの運動感覚が感じられ、他の人々の運動感覚は直接感じられず、自他の身体の区別ができてくる」という説明の必然性はどこにあるのか、という問いに向かいます。

(今回の回答者:山口一郎)

視覚刺激と運動感覚のペアが欠けることでゼロの運動感覚に気づく

この説明の鍵になるのは、自分が喃語を発するとき、いつも「“運動感覚”-“声”」が対(ペア)になって(連合して)与えられていることと、その対の片方が欠けることで、何が欠けたか(ゼロの運動感覚)に気づくということです。この対になっている、意識にのぼることのない「感覚の間の連合」の他の事例(「“視覚” -“運動感覚”」の連合)として、スキーの大滑走競技の例をご紹介します(この例は『<わざの狂い>を越えて』(金子・山口編、明和出版)で詳しく取り上げられています)。

0.3秒の瞬きにより視覚刺激と運動感覚のペアが欠ける

スキーの大滑走では、最高速度は、時速140キロメートルにも達し、スピードを落とさずに、大きなカーブを曲がり切るのは、容易ではありません。そのとき、滑走者は、滑走の間、決して瞬(まばた)きをしてはならないといわれます。脳科学者の研究によると、瞬きするその時間の幅は、およそ、0.3秒間であり、瞬きした瞬間に0.3秒間、その間に与えられる視覚刺激が遮断され、脳に届かないからです。

このとき「“視覚(刺激)” -“運動感覚”」の対(「連合」とも呼ばれる)ができあがらずに、つまり、見えているはずのカーブの曲がり具合(0.3秒間に与えられるはずの視覚刺激)に即応できずに転倒してしまう、というのです。

視覚刺激と運動感覚をペアで感じることは赤ん坊のころから身につけてきたもの

この「“視覚” -“運動感覚”」の対(連合)は、乳幼児の頃から次第に身につけてきた(発達心理学では「学習」と呼ぶ)ものです。生後4ヶ月ごろになった赤ちゃんは、自分の手の動きをじっと見つめ、手の動きとその目に見える手の動きの変化がどうつながって(連合して)いるのか、飽きることなく、繰り返し確かめている様子です。

速く動く手は速く見え、ゆっくり動く手はゆっくり見える

このとき、ゆっくり動いているときの手の「“視覚” -“運動感覚”」の連合と、速く動いているときの手の「“視覚” -“運動感覚”」の連合は、それぞれ、規則的に生じており、「ゆっくりした動きの“見え”」は、必ず「ゆっくりした“運動感覚”」と結びつき、「速い“運動感覚”」と対(ペア)になることは、決してありません。「速い動きの“見え”」は必ず「速い“運動感覚”」と結びついており、「ゆっくりした“運動感覚”」と対になる(連合する)ことはないのです。

このとき重要なことは、この意識にのぼることのない「“視覚” -“運動感覚”」の連合は、いつも持続して流れる時間の中身(内容)として、対になった感じられているということです。この時間の中身(内容)となっている「“ゆっくりした動きの見え(視覚)”と“ゆっくりした運動感覚”」の連合と、「“速い動きの見え(視覚)”と“速い運動感覚”」の連合とは、必然的な連合といわれなければなりません。

見えることと動くことの連合の必然性

幼年期を過ごしてこのように身につけられてきた「視覚と運動感覚との連合」は、大人になってスキーなどのスポーツの練習をとおして、大変、厳密で精密な感覚間の連合として形成されてきます。

こうして、練習を積み重ねる大滑走の選手は、練習のさい、「目の前に開けてくるカーブの曲がり具合(視覚刺激)に即応して、身体の動きを調整し(運動感覚を働かせ)」つつ、カーブを滑走しようとします。この視覚と運動感覚との連合の必然性が証明されるのは、瞬きをして、“視覚刺激”が与えられないことで、それに厳密に即応するはずの“運動感覚”との連合(対)が生じ得ないからです。

瞬きをしなければ、練習で積み重ねた「“視覚” -“運動感覚”」の連合の規則の必然性によってカーブの滑走に成功しますが、瞬きをすることで、“視覚刺激”が与えられず、それに即応しようにも、与えられない“視覚刺激”に即応しようがなく、転倒してしまうのです。

「“視覚” -“運動感覚”」の連合が成り立つときと、「“視覚” -“運動感覚”」の連合が成り立たないときとが、比べられることで、この連合が成り立つときに不可欠である両項(“視覚”と“運動感覚”)が特定されます。このとき明らかになるのは、この両項の連合の必然性は、ちょうど「色と広がり(空間)」との関係の必然性と同じということです。というのも、「色のない広がりは見えないように、広がりのない色も見えず、色と広がりは互いに依存しており、この依存関係は必然的といわれなければないからです。

聴覚刺激と運動感覚のペアが合わない時、「ゼロの運動感覚」に気づく

この大滑走の「“視覚” -“運動感覚”」の連合の必然性は、母子間の喃語の模倣のさいの「喃語の“声(聴覚)”- 喃語の発声のさいの“運動感覚”」の連合の必然性にぴったり相応しています。

“自分”で喃語を発するとき、大きな“声”の喃語の場合、その声の大きさに応じた“運動感覚”が感じられます。大きな“声”の喃語に小さな声の喃語のときの“運動感覚”が対になる(連合する)ことはありません。小さな声、高い声、低い声、特定のリズムの声、などそのつどの喃語の声の違いにぴったり応じた、それぞれの運動感覚が連合して(対になって)与えられています。

母親がそのさまざまな喃語を上手に真似て発するとき、それらの喃語の“声”にぴったり連合しているはずの“運動感覚”が欠けることで、「欠けたゼロの運動感覚」が欠けた感覚として気づかれるのは、必然的といえるのです。

視覚刺激や聴覚刺激と運動感覚との連合は乳幼児の頃から形成された

いかがですか。大人のスキーの選手にそなわっている無意識に生じている「視覚と運動感覚」との厳密な連合は、4ヶ月の乳児の頃から「“視覚”と“運動感覚”」との連合として生成し、形成されてきました。その“運動感覚”が、8ヶ月頃の乳幼児と母親の間に生じる喃語の模倣をとおして「ゼロの運動感覚」として意識にもたらされるようになり、それが随意運動の基礎に感じ分けられているという必然性の説明に納得なさいましたか。

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