待つ

【共著者に聞く】オンラインの時代にこそ「言葉になるまで待つ」という態度が問われる

待つ

【共著者に聞く】オンラインの時代にこそ「言葉になるまで待つ」という態度が問われる

職場の現象学 2020-05-13

2020年4月25日(土)の午後に『職場の現象学』のオンライン出版記念講演会が開催されました。露木恵美子ゼミの現役生や卒業生を中心に30人以上の方々が参加しました。

最初に共著者である山口一郎と露木恵美子が対談。その後、参加者が4~5名のグループに分かれ、対談を受けて著者への質問を挙げました。このシリーズでは、講演の中で答えきれなかった質問を中心に回答していきたいと思います。

質問:
「今後zoomなどオンラインも主流になることで、リアルの機会が少なくなり、関係性、コミュニケーションが変化する中では想像力、言語化が必要だと感じるがどのようにすれば創造的な場がつくれるか?」

(今日の回答者:山口一郎)

コミュニケーションの基本は「情動的コミュニケーション」にあり

コミュニケーションの基本は、本書で述べられた「情動的コミュニケーション」にあると思われます。ということは、同じように「オンラインをとおしてのコミュニケーションの変化」とはいっても、初めてオンラインをとおしてお話しする人々とのコミュニケーションと、すでによく知っていて、表情の変化にその人の気持ち(喜怒哀楽)の変化が直接つたわってくる人々とのオンライン上の話とは、コミュニケーションの深さ(質)が違っているといわれなければならないでしょう。

情動的コミュニケーションは赤ちゃんの時代から形成される

この質の違いはどこからくるのでしょうか。生まれてきた赤ちゃんは、母親の胎内での結びつきに由来する母親との一体感の中で、驚きに満ちたいつも新たな周りの世界に対して、全身全霊でひたむきに向き合って生きています。この世界に対してひたむきに生きる赤ちゃんの態度をブーバーは、幼児期の「我−汝関係」の態度と呼びます。

初めての世界(人々を含め)が、母との間に培われた情動的コミュニケーションをとおして、そのつど出会われた全体としての“汝”になるのです。冒頭に述べた「よく知っている人」というときの、「知っている」ということが「何を意味し」「どのような価値をもっているのか」、その「意味づけ」と「価値づけ」という志向性が、この(養育者の代表としての)母と子の間の情動的コミュニケーションの中で形成されてくるのです。

この幼児期の「我−汝関係」における情動的コミュニケーションの特徴は、言語的コミュニケーションの前提となる「自分(自我)の意識」「意図をともなう随意運動の運動感覚」「言語使用能力」などが形成される以前に生じていることです。「自己中(心的)」になろうにも、その「自己」ができあがる前ですので、いわば「無我、無心」の内に「情動的コミュニケーション」が生成しているのです。

意図的な「想像力」や「言語化」の能力は通用しない

ですから、初めてオンラインで出会う人々とのコミュニケーションにさいして、意図的に「想像力」や「言語化」の能力を向上させようとしても、それは伝わっていない「暗黙知」を活用しようとしたり、相手に「棲み込もう」とすること(気を使って気疲れすることが「棲み込むこと」ではありません)と同じで、意図的にその場で作り出せることではありません。

いわゆる「共感」も同じことです。意図的に「共感しよう」と思わなくても、いじめる相手がそこにいることが「共感」されているから、「無視といういじめ」がいじめになるのです。このすでにできあがっている「共感」をあえて拒絶するから「無視はいじめ」なのです。

「言葉になるまで待つ」という態度が問われる

このように子供たちのあいだに絶え間なく交換されている「共感や反感、好き嫌い、妬みや羨み、快・不快」など、頻繁に変転する情動的コミュニケーションの流れに距離をとって、どうにかその感じを言葉にし、文章にしようとする努力が、人間の「言語化」の努力に他なりません。お互いに言葉にしようとする努力を認め合い、言葉になるまでお互いに待つことができること、これが真の意味の「言語化能力」なのです。

ですから、オンラインで初めて話す人の言葉に耳を傾けるとき、自分が初めて自分の思いを言葉にしようとしたときの気持ちと態度でその人の言葉に聞き入ることができるかどうかが問われているのです。

書物との出会いが悩みを解き放つこともある

他方、唐突ですが、他の極端な例で、今はもう亡くなっている哲学者の書物によって、悩んでいた問題から解放されたり、より深い問題に突き落されたり、それぞれの時代を生き抜いた人間の精神が自分の生きる現実に深い影響を与える場合もあります。

15才のブーバーは、「時間と空間」に限界があるのかないのか苦悩してノイローゼになりかけ、カントの『プロレゴメナ』を読んで一時的にこの苦悩から解放されましたが、17才になってニーチェの著作に出会って、懐疑のどん底に突き落とされ、この懐疑から最終的に解放されるのに長い年月を要し、自分なりの問題解決を『我と汝』という著作で表現できたとされています。

 この精神の出会いともいえる言語的コミュニケーションの成立は、一見して、情動的コミュニケーションの基盤である間身体性とは無関係と思われるかもしれません。

しかし、15才のブーバーが抱え込んだ「時間と空間に限界があるかないか」という問題は、ブーバーのそれまでの自分の経験の全体を傾けて苦悩した、「生死の問題」ともつながる問いでした。ブーバーの世界との情動的コミュニケーションの全体が、言葉になり、言語に表現された問いなのです。カントやニーチェの書物も、それぞれの人生の全体が言葉をとおして表現されたものです。

哲学書との出会いとは、単なる知識の獲得とは無縁です。全身全霊で問わないところに哲学者との出会いは起こりません。全身全霊で問うとは、我を忘れるほどに(無心になって)、その問いと一つになることなのです。世界にひた向きに向かう幼児の無我(無心)が、自我に目覚めた明晰な精神のただ中に再実現することなのです。