新型コロナウイルスが教えてくれる人と人との関係性

世の中では、新型コロナウイルスの感染拡大の話題で持ち切りです。社会自体が新型コロナウイルスに感染してしまったかのようです。緊急事態宣言に続き、首都閉鎖が発動されるのも時間の問題といわれ、現実味を帯びてきました。

この数か月の間に起こった、そして、この先に起こるであろう新型コロナウイルスに関わる人々の行動とそれに対する反応から、私たちが学べるものは何かを考えてみたいと思います。

新型コロナウイルス(以下、C19)感染症は、未知の感染症です。その実態がよくわからず、治療薬もワクチンも現在のところはありません。ウイルスは人の身体をホストとして人から人へ感染します。人を媒介にして感染するということが、C19の感染症の特徴です。

それで3つの密(密集、密閉、密接)が重なるところが感染リスクが高まるから、できるだけ外出を自粛し、複数の人数で集まらないようにという注意喚起がなされています。つまり、C19は人と人と接触を妨げるウイルスということもできます。

今まで簡単に会える、会えるのが当たり前というのが、当たり前ではなくなってしまっても、人間は人との交流を求めます。三密はダメだといっても「自分だけは大丈夫」とか「ちょっとだけなら」といった気持ちで普段どおりの行動をすることで、感染してしまうこともあるでしょう。人が対面で会えなくなった時の喪失感、不安感、孤独感、そこからくるストレスは尋常なものではありません。それを人に強いるのがC19感染症です。

一方で、この一ヶ月あまりの間に、企業などではテレワークが急速に普及しました。なかなか進まなかった働き方改革が皮肉にも実践されたのです。それで実際やってみて、テレワークでできること、できないこと、不都合なことが具体的に見えてきたと思います。

テレワークで比較的容易にできるのは、ルーチン化された仕事、プロセスがはっきりして複雑な意思決定が伴わない仕事です。一方で、複雑な意思決定が伴う仕事や込み入った仕事、言葉になる手前の感覚を突き合わせるようなクリエイティブな仕事は、やはり対面で話し合わないと難しいことが明らかになってきました。

つまり、形式知化された仕事はテレワークに向いており、暗黙知に根ざす仕事はテレワークには向かないということです。暗黙知に根ざす仕事は、身体と身体がそこに居合わせることによって生じる「共感覚」が必要だからです。

人は言葉でのコミュニケーションだけで感情のやりとりをしているわけではありません。言葉にならないところで伝わることが、実は言葉よりももっと大切であることを、われわれは無意識のうちに知っています。職場での人間関係に悩んでいるとき、自分の心の痛みを受け入れてくれる人が隣に座ってくれているだけで、何か言葉を交わすわけでもないのに、気持ちがなごむということがあります。それくらい、身体と身体の間の情緒的コミュニケーションは、人と人のコミュニケーションの土台をなしています(*職場の現象学「場のモデル」)。

このような状態になって、われわれに突き付けられているのは、リアルに会えることの価値の再認識とバーチャルで仕事をすることの意味です。

バーチャルな場におけるコミュニケーションも悪いことだけではありません。電子会議において「今まであまり話さなかった人が発言するようになった」ということを耳にします。なぜ発言ができるようになったのでしょうか?それは、そこに身体と身体が居合わせないことで、無言のプレッシャーから解放されて、自由な発言が可能になったのではないかと思います。

実際に日本の職場では、暗黙のルールとして、年長の人や上司の発言機会が多く、若輩者や部下の発言機会は限られます。「なんでも発言してもいいよ」と言いながら、無言でプレシャーをかけているのです(それも無意識のうちに)。そういう身体のもっているパワーを弱くしてくれるのがバーチャルな場です。

それそれの特徴を仕事にどのように活かしていくのか。一人になって仕事をすることで、そういうことを考えるよいきっかけをC19感染症は与えてくれているとも言えるでしょう。

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