各用語の最後に、本書でその用語が使われている頁数が記載され、主だって描かれている頁は、太字になっています。また、各用語の説明のさい、他の箇所で別の用語の説明がなされている場合、その用語に(→)の記号が付されていますので、その用語の説明を参照してください。

志向性

フッサール現象学の用語で「意識生Bewusstseinsleben」という用語があり、この意識生は、人間の意識と無意識を含んだ生命という意味をもちます。この意識生は、意識にのぼらない無意識の生存本能にみられるような「生きることの意味と価値(例えば、授乳の意味と価値)」に向かう志向という性質である「志向性」もち、また、意識され自覚された学問研究や経済活動など「意図的活動のさいの意味とか(例えば、外語語の学習の意味と価値)」に向かう志向性をもつといわれます。この何らかの「意味と価値」に向けられている意識生の特質が「志向性」と呼ばれるのです。前者の志向性である無意識の意識にのぼらない志向性が受動的志向性(→)と呼ばれ、後者の意識された志向性が能動的志向性(→)と呼ばれます。

掲載ページ⇒8, 42, 44, 46, 48, 50, 66, 68, 70, 75, 92, 153, 165, 322

- 受動的志向性

生存本能のように、意識にのぼらずに働く志向性が受動的志向性といわれます。この受動的志向性には二つの区別があります。一つは純粋な受動的志向性です。それは、自分という自我の意識が生まれる以前の、つまり、自我の意識をともなう能動的志向性が生まれる以前の「純粋な受動的志向性」とよばれます。二つ目の受動的志向性は、能動的志向性(たとえば「身体を動かす」という随意運動の志向性)が生じたとき、それが過去把持(→)をとおして記憶に残っていくとき、それは受動的志向性として残っていきます。能動的志向性が受動的志向性に変化(変様)したのです。能動的志向性を起源にする受動的志向性です。これを「能動性に由来する受動的志向性」と呼ぶことにしましょう。

掲載ページ⇒45, 46, 47, 48, 64, 65, 66, 67, 69, 70, 84, 87, 94

- 能動的志向性

意図的な随意運動の場合、自我の意識をともなっていますので、能動的志向性が働くといわれます。しかし、発生の順序からいって、本能的な自我の意識が生まれる以前の不随意運動が先に起こり、不随意運動の純粋な受動的志向性が生じています。受動的志向性としての不随意運動をコントロールできるようになって初めて、能動的志向性としての随意運動が可能になるのです。スポーツや音楽にかかわる習い事は、随意運動の反復による練習の積み重ねをとおして、それらの能力の向上が目指されています。これらの能力の向上は、能動的志向性としての随意運動が練習されるたびに受動的志向性として身体記憶にのこり、継続する練習のさい、ことさら注意せずとも習慣化された不随意運動のように、無意識に随意運動が起こるようになることで実現されてきます。

掲載ページ⇒45, 46, 47, 64, 66, 67, 69, 70, 92, 119, 128

- 顕在的志向性と潜在的志向性

「顕在」というのは、「はっきり表れていること」を意味し、「潜在」というのは、「現れずに潜んでいること」を意味しています。たとえばゲシュタルト心理学(→)の「ルビンの杯」の例では、「杯と二つの横顔」が図と地に変換するとき、図になることが顕在的志向性が充実し、地になることが潜在的志向性になることを意味するのです。ですから、「杯」が図として顕在的志向性になっているとき、「二つの横顔」は、地として潜在的志向性になっており、この潜在的志向性だった「二つの横顔」が図として顕在的志向性になるとき、それまで図として顕在的志向性であった「杯」が地として潜在的志向性になります。この顕在的指向性が潜在的志向性になり、潜在的志向性が顕在的志向性になることは、能動的志向性と受動的志向性の変換に相応しています。能動的志向性ははっきり意識された顕在的志向性ですので、この顕在的志向性が背景に退き、潜在的志向性になるとは、能動的志向性が過去把持をとおして受動的志向性になることを意味しているのです。

掲載ページ⇒82, 95, 99

主観と客観

主観の主は主人の主で、客観の客は客人の客です。主人から見て(観て)、客人は、入れ替わり立ち替わり、複数、さまざまに代わっても、主人はいつも一人です。観るという語は、「よく、注意して見る」という意味をもちます。ですから主観は、よく観て行動する同一の個人を意味します。この主観がよく観るのは、複数の人間だけでなく、その主観が経験する出来事や事物の全体です。ですから主観からよく観られる客観は、その主観によって経験される出来事や事物の全体をも意味するのです。

この主観と客観について大切なことは、自分が主観で、他の人がその主観から見た客観といえますが、逆に他の人の主観から見たとき、自分はその他の人の主観から見られた客観になるのです。立場の交換のように、「主観と客観」は交換されるのであり、それは、人はすべて「私」といえるように、「私という主観から私にとっての客観をもつ」のです。

掲載ページ⇒8, 17, 18, 20, 22, 24, 74, 85, 89, 109, 147, 247, 303

受動的綜合と能動的綜合

意識にのぼらない受動的志向性は、たとえば、受動的志向性としての視覚や聴覚や運動感覚などは、それぞれ、別々に個別的に働いているのではありません。喃語を発する赤ちゃんの場合にみられるように、「大きな喃語の声(聴覚)とそのときの強い運動感覚」「小さい喃語の声(聴覚)とそのときの弱い運動感覚」というように、いつも「聴覚と運動感覚」が対(ペア)になって与えられています。自分の手が動くのをじっと見ている赤ちゃんの場合も、同じように、「早く動く手の動きの見え(視覚)と早く動くときの手の運動感覚」「ゆっくり動く手の動きの見え(視覚)とゆっくり動くときの手の運動感覚」は、それぞれ対になって連合して与えられています。自分で意図的に故意に「聴覚と運動感覚」「視覚と運動感覚」を「紐を結ぶ」ように結びつけているのではありません。このような受動的志向性のまとまり(連合)が「受動的綜合」と呼ばれます。

それに対して、自我の意識が芽生え、能動的志向性による随意運動の運動感覚が感じられるようになると、自分で意図的に「早く手を動かしたり、ゆっくり動かしたり」できるようになります。そのとき、ソファーの後ろに見えなく(感覚に与えられなく)なった「車のブーブー」をハイハイして取りにいったり、「ブーブー!」といって、母親に取ってもらったりすることができるようになります。見えなくなっても「車のブーブー」は、同じ「車のブーブー」として知覚できるようになり、見えない「ブーブー」を「ブーブー」という言葉を使って、取ってもらえるようになるのです。この知覚と言語使用は、能動的志向性による能動的綜合として生じています。

掲載ページ⇒92, 118, 123, 124, 128, 153, 160, 202, 239, 274, 296, 315, 322

自由変更

本質直観(→)の方法は、事例を集める段階と、それらの事例を自由に想像たくましくしてさまざまに変化し、変更してみるこの「自由変更」の段階に区別されます。自由変更は思考実験にもたとえられ、自然科学の「観察−実験−検証」という方法に限定されることなく、その物事の本質をめぐり、自分の経験や他の人々の経験に照らして「一方の肯定的な極端な例から、他方の否定的な極端な例」をたどり、想像力の限界に挑戦し、まさに「ものごと」そのものに成り切ることで、「ものごと」の方からその本質を告げるといったことが起こるのです。この「ものごとになりきる」というとき大切なことは、自然科学の研究成果を積極的にとりいれるのであって、排除するのではないということです。自由変更による想像力の最大限の活用は、それをとおして、学問上の新たな発見や芸術作品などが実現できることにつながっているのです。

掲載ページ⇒62, 69, 132, 165, 314, 340

情動と感情

感情というのは、「喜怒哀楽」と表現されるように、どのような感情であるか、大人である私たちは、比較的はっきりと区別できています。それに対して乳幼児や幼児の場合、養育者との情動的なつながりのなかで、摂食や睡眠など本能的欲求の充足や欠損にともなう身体の生理的快感や不快感が、「泣いたり、笑ったりする」さまざまな情動の変化として表現されています。ですから、感情は、比較的ハッキリ言葉にできても、情動の動きは、身体全体の感じの変化として、情動が伝わることで共感されているものです。それはそのまま、言葉にされるまでもなく、体験の流れとして経験されているといえるのです。

掲載ページ⇒49, 77, 87, 89, 90, 91, 96

情動的コミュニケーションと言語的コミュニケーション

「情動」というのは、喜怒哀楽と言われる感情だけでなく、身体の生理的条件によって生じている快・不快をも含めた全体的な情緒的反応とされ、時として、状況に応じて激しく変化したりします。母子関係に見られるように、母と子のあいだには、いつも「泣いているのか、笑っているのか」「どんな情動の変化がみられるのか」言葉はなくても、敏感に感じ分けられ、コミュニケーションが成り立っています。それを「情動的コミュニケーション」と呼びます。

その情動的コミュニケーションのさい、ほとんどの場合、母親の言葉による赤ちゃんへの語りかけがともなっています。哺乳瓶をとるにしろ、おもちゃを渡してあげるにしろ、「ミルク?」とか、「ブーブー?」(おもちゃの名前)とか言葉を使って、赤ちゃんに話しかけています。幼児が情動的コミュニケーションにおける共感(→)を基礎にして、その共感に、言葉がつけられていることが記憶されることをとおして、特定の言葉が何に当てられているのか感じ分けられることで、言葉の意味が分かり、自分で言葉が話せるようになって、他の人々との言葉をとおしての「言語的コミュニケーション」が成り立つことになります。

掲載ページ⇒10-12, 14, 49, 50-52, 62, 64-66, 68, 96, 107, 109-111, 117-120, 124, 128, 129, 145-147, 153, 180, 181, 187, 209, 217, 221, 224, 225, 338-341

随意運動

意図的な運動を随意運動と呼びます。「ゼロの運動感覚」を感じた赤ちゃんは、座位がとれるようになり、ハイハイできるようになるとき、「ああしたい」「こうしたい」といった本能的欲求(たとえばおもちゃを手に取りたいといった欲求)にそくして自分の身体を制御しながら、自由に動かせるようになります。そのような自分の欲求(志向)の充足(充実)に向かう意図的な身体運動を随意運動というのです。

掲載ページ⇒8, 25, 46, 47, 56, 66, 87, 91, 92

「図」と「地」の変換

ゲシュタルト心理学(→)で示されている「ルビンの杯」(本書81頁)の例で、杯が図として見えているときには、向かい合う二つの横顔は地として背景に退き、向かい合う二つの横顔が図として見えているときには、杯は地として背景に退きます。図として見えているときには、地は背景になり、図としては見えていません。見えていると意識されるのは、「杯」か「二つの横顔」かのどちらかであり、一方が図になるときは、他方は地になり、それが変換して、図が地になり、地が図になることを「図と地の変換」と呼びます。

掲載ページ⇒81, 82, 95

生活世界

人々が生まれ、成長し、社会生活をとおして生を終えるまでの生活の全体を生活世界と名づけます。この生活世界のもっとも重要な特徴は、人は、日本とかドイツとか、特定の共同体(社会)のなかで生まれ、その共同体のなかで生を終えることです。それぞれの共同体が属するそれぞれの生活世界には、生きることの意味と価値を共有しようとする世界観と価値観が備わっています。この意味づけと価値づけが志向性と呼ばれ、その志向性は、親の生き方が自然に、気づかずに、無自覚に身についているような志向性を受動的志向性と、意図をもった随意運動のように、自我の意識をともなう志向性が能動的志向性とに区別されます。

掲載ページ⇒47, 48, 64, 128

SECIモデル(セキモデル)

野中郁次郎は、M. ポランニーの暗黙知の洞察を、独自の「知識創造理論」に活用しました。暗黙知が有効に働いていている場合(たとえば、複数の熟練工のあいだで技術が共有されている場合)、暗黙知が共同化(Socialization)されているといわれます。しかし、暗黙知が共同化されていても、そのままでは、言葉で説明することはできません。熟練工の身体知を機械化するためには、その暗黙知が言葉と数式による形式知として表現されねばならず、その形式知化が「表出化(Externalization)」と呼ばれます。さらに、高度な身体技能の機械化は、容易な課題ではなく、IT技術の活用が不可欠だったりして、その機械の設計のため、関連する必要な形式知を結集して、形式知の「連結化(Combination)」が実現されなければなりません。その機械がどれだけの有効性を発揮できるか、出発点で働いていた熟練工の暗黙知の現実とつき合わせられることが「内面化(Internalization)」といわれ、出発点にあった暗黙知の共同化(S)から形式知への表出化(E)と形式知の連結化(C)、そしてこの内面化(I)をとおして、形式知を経たより高次の(あるいはより深化した)暗黙知へと創造的発展を遂げていくのです。この知識創造の螺旋状(スパイラル)のプロセスがSECIモデルといわれます。

掲載ページ⇒122, 124-126, 130, 165, 349

相互主観性

私たちは、お互いに「わざとかわざとでないか」「意図的か、そうでないか」「故意か過失か」自分の行動に責任をもっています。お互いがそれぞれ自分の意志をもった「主観」(→)であることを認めあっているのです。このとき現象学が問うのは、私たちは、「どのようにして、それぞれ、別々の主観になり、お互いに主観であることを認めるようになったのか」という相互に主観である「相互主観性」の成り立ちの問いです。この成り立ちを問うことで、明らかにされてくるのは、自分が自分であるという「自分の主観」を意識しはじめる前に、すでに養育者とのあいだの情動的コミュニケーション(→)においてお互いに情動一致による受動的綜合(→)をとおして「受動的相互主観性」ができ上がっていることであり、自我意識の形成をへて、成長し、言語的コミュニケーション(→)において、知覚や言語使用による能動的綜合をとおして「能動的相互主観性」が成立します。この能動的相互主観性のただなかで、ものごとに我を忘れるほどに無心になって集中することで「我−汝関係」(→)が実現することになります。

掲載ページ⇒23, 25, 127, 256, 335, 337

相互基づけ

情動的コミュニケーションは受動的相互主観性において生成し、言語的コミュニケーションは、能動的相互主観性において形成されてきます。この情動的コミュニケーションと言語的コミュニケーションの相互の関係が「相互基づけ」といわれます。「基づける」というのは「基礎づける、基礎を与える」という意味です。このとき、「基礎」を広く理解して、「それが欠けると、ことが起こらない不可欠の前提」と考えてください。たとえば、言語的コミュニケーションが可能になるのは、育児のさいの母子間に交わされる情動の一致による情動的コミュニケーションです。それによって、取って欲しかったのが何か(縫いぐるみの「プーさん」か「ぴょん太」か)赤ちゃんが言葉を話す前に、快・不快の仕草や表情だけで分かるのです。この言葉以前に「プーさん」は「プーさん」、「ピョン太」は「ピョン太」という「物の同一性」が「情動の一致」をとおして確かめられていないと、「プーさん」と「ピョン太」という言葉は、「同じ特定のもの」につけられた特定の言葉になりません。感覚のまとまりとしての物の知覚が前提にならないと、言葉は、その言葉の意味をもつことができないのです。これが情動的コミュニケーションが言語的コミュニケーションを基づけるという意味です。

他方、母親が「プーさん」とか「ピョン太」とかいう言葉を使って語りかけることで、喃語の母子間の模倣で準備されていた言葉を発声するさいの「運動感覚と聴覚との連合」が誘発されます。乳幼児は、喃語を模倣するとき、運動感覚を運動感覚として気づく以前に、そのまま喃語の模倣ができていたのですが、母親の喃語の模倣で初めて「ゼロの運動感覚」に気づきます。それまでできていた喃語の模倣が、繰り返されるとき、自分が喃語を発声するときの「声(聴覚)から区別される運動感覚」をそれとして感じ分けることができるようになるのです。

それによって、母親の「プーさん」という言葉は、喃語の模倣のように、乳幼児の「プーさん」という発声を促し、その発声が生じたとき、乳幼児の発語が始まるのです。このように、母親(養育者)の言葉による乳幼児への語りかけがあってはじめて、現在の感覚が欠けても「プーさん」という物の知覚が、さまざまな感覚を一つにまとめる知覚の表現としての「プーさん」という言葉を使えるようになるのです。これが言語的コミュニケーションが、感覚による情動的コミュニケーションへと働きかけることであり、情動的コミュニケーションそのものが言葉の使用をとおして変化を遂げてくることになるのです。これが言語的コミュニケーションによる情動的コミュニケーションに対する基けということができます。

掲載ページ⇒48, 52, 64, 66, 118, 127, 129, 337, 338