各用語の最後に、本書でその用語が使われている頁数が記載され、主だって描かれている頁は、太字になっています。また、各用語の説明のさい、他の箇所で別の用語の説明がなされている場合、その用語に(→)の記号が付されていますので、その用語の説明を参照してください。
過去把持(かこはじ)
「電車の急ブレーキ」の場合、不随意運動として起こった足の動きの運動感覚が、起こった後に気づかれ、意識されたのであり、意識される以前に起こったことが自分 の「運動感覚」であったことは、絶対に間違いありません。このとき、意識にのぼらずにどうやって、起こったことが「足が動くときの運動感覚」であると感じ分けることができたのでしょうか。このときフッサールは、意識されずにその運動感覚が、感じ分けられ、過ぎ去りつつ、保たれていくという意味で、「過去把持」されていたと説明します。意識されずに感じ分けられていた運動感覚が、足の動きが起こると同時に過去把持されていたので、起こったことが何であったか意識できる(気づける)というのです。これを「意識されない過去把持」と呼びます。
それに対して、意図的に随意運動によって「他の人の足を踏みつける」場合、「踏みつけること」は、初めから意識されており、「踏みつけたとき」の運動感覚が、意識されて過去把持に残っていきます。このときの過去把持が「意識された過去把持」と呼ばれます。
過去把持はいつも未来予持(→)と共に働いており、未来予持が充実したり、充実しなかったりすることで、それが過去把持になり、その過去把持になったものが、未来予持として志向されることになるのです。
掲載ページ⇒41, 42, 44, 46, 73, 75, 76, 87, 98, 321, 336
感覚と知覚
母親からクマのぬいぐるみのプーさんを手渡してもらう赤ちゃんにとって、プーさんを手にできたそのとき、プーさんの見え(視覚)と「ハイ、プーさん」という音声(聴覚)とプーさんを手にしたときの感触(触覚)などが、一つにまとまって感じられ(感覚され)ています。実際に手にすることができたとき、触覚が与えられますが、受け取る前は、触覚は与えられません。母親が黙って手渡すときは、「プーさん」という音声(聴覚)は与えられません。さまざまな感覚は、そのつど、与えられたり、与えられなかったりしますが、そのどの一つの感覚が欠けても、例えば、目をつぶっても(視覚が欠けても)一つの同じ物(熊のプーさん)だと分かる(知る)ことができる場合が「知覚」と呼ばれます。プーさんという言葉が聞こえなくても、見えているだけで、プーさんを知覚でき、まだ触れることができなくても、プーさんが知覚され、手渡されようとしているのです。こうしてさまざまな感覚がもとまって同じ物という物の知覚が成り立っているのです。
掲載ページ⇒11, 103, 107
感覚質(クオリア)
脳科学研究において「クオリア」と呼ばれるものに該当します。第6章の脚注21にありますように、「脳科学研究にあって、感じ分けられる感覚の意味である感覚質のことをクオリア(qualia)と呼びます。脳内の活動電位と直接実感できる感覚質(クオリア)との対応関係は、解けない『クオリア問題』とされています。」(本書80頁)とあるように、私たちにとって実感されている「運動感覚の変化」と「視覚像の変化」の区別、たとえば、「速く手を動かせば(運動感覚の変化)、速く動く手がみえる(視覚像の変化)」といった区別が、脳の運動野と視覚野の活性化率のデータを積み重ねても、この感じ分けを説明できないのです。
現象学は各自の実感から出発します。各自にとって、音と色は区別して感覚できます。聴覚に与えられる感覚の質と視覚に与えられる感覚の質が区別できる(感じ分ける)ことができるからです。このことに加えて重要なことは、この「視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚、運動感覚等」それぞれの感覚質は、生まれつきに乳幼児に与えられているのではなく、原共感覚(→)の状態から、ちょうど「ゼロの運動感覚」(→)に気づかれ、それと同時に、この運動感覚から聴覚が区別されてきます。つまり、原共感覚という諸感覚の間の連合(→)の状態から、何らかの感覚が欠けることをとおして、原共感覚において融合している諸感覚の連合から、諸感覚の感じ分け(感覚質)ができあがってくるのです。
掲載ページ⇒80, 82, 86, 101
感情移入
感情移入という言葉は、お互いに各自の「感情を移し入れる」という意味をもつのではありません。感情移入は、大きく二つに類別されます。一つは、そのつもりで相手の気持ち察しようとする、「感情を移し入れる」という以前に、むしろ、「もらい泣き」とか、「欠伸がうつる」とか、人の気持ちが伝染してしまう、自然に生じる「共感」に近い意味の感情移入と、相手に真摯に向き合うことで、無心(→)に相手の話に巻き込まれることで、相手の気持ちが写ってきてしまうという意味での感情移入です。
この感情移入の区別は、自然に受動的綜合(→)によって生じる感情移入と、無心の態度という能動的綜合(→)の極致といえる「我−汝関係(→)」において生じている感情移入の区別ということもできます。意識にのぼらない受動的綜合による感情移入は、部屋に人が入ってきたとき、人であることが分かっていることにすでに働いています。人の視覚像の変化と運動感覚の変化との連合(→)が、無意識に働いて、「人が入ってきた」と感じ分けることができるからです。「無視」がどうして「いじめ」になるのか、その理由でもあります。ある生徒が教室に入ってきたことは、受動的綜合としての感情移入によって分かっているのに、あえてそれ(その生徒の存在)を無視しようとするからです。
「我−汝関係」において生じる感情移入は、汝といわれる「人間や自然や精神」に対して、無心に、全身全霊で向かっているとき生じる感情移入です。無心だからこそ、汝のありのままがそのまま直接、映りこんでくるのです。
掲載ページ⇒9, 10, 68, 85, 86, 96, 102, 125, 173, 239
間身体性(かんしんたいせい)
現象学では、自分の身体と他の人々の身体とのあいだ(間)に、快・不快の情動が伝わりあっていることが、身体と身体のあいだに起こる「間身体性」と呼ばれます。間身体性は、乳幼児の頃から育児における情動的コミュニケーションをとおして次第に強固で柔軟な働きとして形成されてきます。乳幼児期にみられる間身体性の働きとして典型的な例は、生後4ヶ月ごろまでにみられる「伝染泣き」(→)です。周りにいる他の赤ちゃんが泣き出すと、自分のことのように、泣き出してしまいます。自分の身体と他の赤ちゃんの身体の間の距離がなくなり、一つの身体を生きているように感じるのです。この間身体性の働きは、大人になっても、無意識に働いており、列車の急ブレーキで、気がついたら隣に座っている子供の肩を支えていたということにも、自分と子供の身体が、出来事の中で、無意識に一つの身体として“感じられていた”ことに現われているのです。
掲載ページ⇒ 10, 87, 117, 125, 154, 161, 260, 273, 290, 320, 323, 342
共感
共感は、感情移入(→)と同じように、大きく二つに区分されます。幼児期の自我(自分)の意識が形成される以前の情動的コミュニケーション(→)が生じているときの共感と、自我の意識が形成され、言語的コミュニケーション(→)が成立した後、お互いに無心になって(我を忘れて)ものごとに集中しきっているときに生まれる共感との区別です。
乳幼児期に母親とのあいだの情動的コミュニケーションにおいて成立している共感は、乳幼児の快感や不快感の変化が、直接、母親の情動の変化に反映するように、また母親の情動の変化が、乳幼児に情動の変化に直接、影響を与えあっているということができます。
大人になった大人同士の共感は、ブーバーのいう大人のあいだで生じる「我−汝関係」(→)において生じます。そのときの特徴は、上に述べた「我を忘れて、無心にものごとに集中していること」として表現できます。このとき「共感が生じていたこと」が我に戻って初めて気づくのであり、我に戻ってもその共感の経験は消え去ることなく、その経験がその人の人生を方向づけていくことになります。
掲載ページ⇒10, 55, 56, 68, 71, 88, 118, 125, 129, 145, 153, 173, 174, 181, 242, 260, 274, 288
ゲシュタルト心理学
本書81頁の注22から:ゲシュタルト心理学とは、ドイツ語のGestalt(形態)という概念によって、知覚の対象を「部分の要素」を取り集めて一つの全体として(たとえば「杯」や「対面する横顔」として)知覚するのではなく、形態としての全体が、全体としてそのまま知覚されることに重点をおき、その形態としての知覚のされ方を「近接、類同、併合」などの規則性をとおして解明する心理学を意味します。
掲載ページ⇒81
原共感覚(げんきょうかんかく)
原共感覚というのは、身体の内側で感じる内部感覚と、外からの刺激による外部感覚との区別がつかず、何をどう感覚しているのか、すべてが一つに溶け合っているような全体感覚のことであり、発達心理学では無様式知覚(amodal perception)とも呼ばれます。この原共感覚が現象として現れている典型的な例が、いわゆる生後4ヶ月ごろまで続く「伝染泣き」(→)です。この頃までの赤ちゃんは、どんなときでも、周辺に赤ちゃんの泣き声が聞こえると、まるで自分が泣いているように泣くことが伝染してしまうのです。それは、泣いているときに聞こえる泣き声が外部から聞こえることと、泣くときに体内で感じる泣くときの身体の運動感覚の区別がつかず(つまり原共感覚の状態で)、自分が泣いている状態が引き起こされるからだと説明されるのです。
掲載ページ⇒72, 76, 86, 93